化学は知性を欠いた物理学だ。数学は情熱を欠いた物理学だ。
Richard P. Feynman
高校化学では経験事実を天下り的に受け入れる。
これは物理をかじった高校生にはウケが悪い。
全て数式から導出できると信じるピグマリオン症候群の物理学徒は高校化学を軽視する。
化学は科学ではないという意見が出てしまうのもある種、仕方がないのかもしれない。
ただ、定性的に自然言語で説明しているのか、定量的に数理言語で表現しているのかの違いに過ぎないということには留意すべきだろう。
これはつまり、推論による論理展開が可能な表現方法か否かの違いに過ぎないということだ。
意欲ある高校生は、物理や数学に万能感を感じてしまうことが多い。
しかし、さらに勉強を進めると世の中にはよく分かっていないことがたくさんあり、物理や数学で全てを記述できるといった考えにはある誤解があることに気付くだろう。
それは、科学は現実に対して常に“相対的に正しい”ということである。
自然科学とは些末な要因を捨象して、理想化したものについて議論しているので、前提として近似的なものにしか成り得ない。
それでも、観測しているスケールで実験事実をうまく説明できるのであれば、その理論は現象をよく捉えた理論として“正しい”ものになる。
しかし、本当の意味で正しいかどうかは誰にも分からないし、それを知る必要もない。
新たな経験事実が既存の科学の枠組みを飛び出し、破壊と想像を動機付ける。
それを繰り返すことで、科学は前に進み続ける。
高校生の教科書には、その先人の積み重ねが誰でも平易に分かりやすく理解できるように書いてある。
意欲ある高校生は、何が原理で何が推論の結果か、論理構造に注意しておくことが発展的な学習に備えた頭の整理になると思う。