問題は「生きるべきか、死ぬべきか」ではなかった。
引用:平野啓一郎「本心」P.338
「方向性」としては、そう、「死ぬべきか、死なないべきか」の選択だった。
自分の人生をデザインする。
人生設計だとか、ライフプランといった言葉で語られることが多い。
人生をデザインする過程で死を考慮することは、納期を考慮して作品を完成に持っていくのと同じくらい重要だ。
生まれたばかりの赤ちゃんは自分の死を意識しない。死をデザインするのは、死に近づいことがある人間だけである。
自ら瀕死の淵を彷徨ったり、親しい人の死に触れたり、そういったリアルな死の体験を通してのみ、生への執着と死への恐怖が強まる。
生への執着から離れて、死の恐怖を乗り越えた、もしくは乗り越えさせられた人だけが、自ら死を選ぶ勇気を手に入れる。
日本では安楽死制度はまだ合法化されていない。
今までは「もう十分生きた」という感覚には諦念を感じていた。
しかし、最近になって自分の人生に自分で幕を引くことの意味を再考し、尊厳死という言葉に込められた意味からは、安楽死とは異なる響きを感じた。
平野啓一郎の「本心」の舞台は2040年代。
自由死(安楽死)が合法化された社会を描いている。
生前、自由死を希望していた母が亡くなったことで失意に暮れ、母そっくりのバーチャルフィギュアを作成することで、母との分人を再び生き、母の本心に迫っていく、といったような話である。